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横浜に関内という地名はない(住所雑学シリーズ20)

横浜関内といえば、山下公園付近の官庁街、公園・球場、そして中華街と我々がザ・ヨコハマとして思い浮かべる場所ですが、横浜市中区に「関内」という地名はありません。では「関内」とは何を指すのでしょうか。そのことを知るには横浜の歴史をたどる必要があります。

江戸時代までの元の横浜村とは現在の山下町の海岸沿いあたりのみで、そこから洲干島(しゅうかんじま)という砂洲が伸びており、私たちがイメージしている関内のある場所のほとんどは入り江の内側の海の中でした。

この入り江は大岡川から流れこむ堆積で浅瀬の洲が出来上がっており、この地形を活かして江戸前期に大干拓事業が行われました。かつての大岡川の河口は現在の京急南太田駅あたりの大岡川と中村川が分流するところにあたり、この両川に沿って現在の伊勢佐木町の先、新横浜通り(首都高速横羽線・JR根岸線沿い)あたりまでが埋め立てられました。この分流点から先のそれぞれの川の流れは元の海岸線であり、干拓に際して水を逃がす水路でもありました。事業主の吉田勘兵衛の名に因んでこの埋め立て地は吉田新田と呼ばれています。伊勢佐木町の西隣にある吉田町はこれが由来です。

ここまでは幕末前までの横浜ですが、ペリー来航の少し前頃より洲干島側から新たな干拓が始まり、1859年の横浜港開港の頃と相俟って最終的には吉田新田の手前まで埋め立てが進みました。事業主の太田屋左兵衛からこの干拓地は太田屋新田と呼ばれています。
これによって江戸中期に干拓された横浜新田(現在の中華街あたり)と合わせてこれら入り江の領域はほぼ埋め立てられましたが、完全に地続きにはなりませんでした。太田屋新田の干拓にあたって中村川の水を海に逃がす派大岡川(はおおおかがわ)という水路がこの二地の間に設けられたからです。現在この水路は埋め立てられ、新横浜通りと首都高速横羽線が通っています。

この水路は治水的な意味だけでなく堀の役割も持つことになりました。それは太田屋新田側が外国人居留地に充てられたからです。時は幕末、尊王攘夷運動が激しく、幕府は外国人と日本人(特に武士)との接触を極力避けるため、太田屋新田周りを出島のように囲いました。
出島のようにするには限られた通路(橋)と関所の設置が必要です。そこで作られたのが吉田橋関門でした。橋は現在の伊勢佐木町通りから馬車道に抜ける新横浜通り(派大岡川)との交差点にあたる場所に架けられ、吉田新田側に関所が設けられたことでこの名称となったのです。

さて、これでお気づきになられたかと思いますが、この関門の内側に囲まれた敷地なので「関内」なのです。対岸の伊勢佐木町(お隣の吉田町も)などは関門の外なので「関外」とも呼ばれ、関内、関外で彼岸此岸を言い分けていました。
この「関内」にあたる現在の町名を列挙すると、港町、真砂町、尾上町、常盤町、住吉町、相生町、太田町、弁天通、南仲通、本町、北仲通、元浜町、海岸通、日本大通、山下町、横浜公園となりますが、領域で表現するなら、大岡川と中村川に挟まれた、新横浜通り(首都高速横羽線・JR根岸線)より海側、ということになります。

正式には「関内」という地名は存在しませんが、お店紹介などの住所で「横浜市中区関内〇-〇」と表記しているケースをたまに見かけます。これに関しては「港町」のことを指していると推定してほぼ間違いありません。
関内地区の西側地域には東西に長細い短冊状の町が12並んでいますが、その南端の「港町1~3丁目」はJR関内駅がすっぽり収まるような形状をしています(4~6丁目は殆どがJR根岸線・首都高速横羽線・新横浜通り)。特に1・2丁目には「関内」が名称に含まれる建物が並んでおり、駅前アピールも兼ねて勢い余ってそう名乗る気持ちは分からなくはありません。
このように雑学ネタになるのはありがたいですが、処理する側の気持ちにもなっていただきくはあります。